おいちゃんとぼく   小平有希


おいちゃんは『林さん』と言う名前で、ぼくん家の前の公園を突っ切って、斜め前の曲がり角を右に曲がったところにある、なんだかやけに細長い一軒家に、ひとりで暮らしていた。
 いつも少しだけくたびれたエンジとグレーのキャップをかぶって、眉間にはぎゅうぎゅうにシワ、口は大きなへの字口で、への字口になりすぎて、顎がぐいっと前に飛び出していた。
 ぼくはおいちゃんが見るたびに恐い顔をしているから、なんでおいちゃんはずっと怒ってるんだろうって、ママの後ろに隠れながらおっかなびっくり思っていた。
 おいちゃんは、ぼくん家のアパートの『大家さん』と言う人で、ぼくとママにお部屋を貸してくれている、なんだか偉い人らしかった。
 毎月月末になると、ママは必ずぼくの手をぎゅっと握りながら、おいちゃんの家に『お家賃』を渡しに行った。
 インターフォンを押すと、おいちゃんは黙ってのそのそと玄関から出てきて、『お家賃』の入った封筒の中身をさっと乱暴に確認し、「ありがとさん」と、またのそのそと玄関に戻って行った。
 おいちゃんの姿が見えなくなると、ママの手からはゆるゆると力が抜けて、するりとぼくの指から離れっていった。ぼくはいつも、それが少しだけさみしいような、くやしいような変な気持ちになるから、行き場の無くなった手のひらを、ただ握ったり開いたりして、どうにかそれをやり過ご した。

「明日は林さんとこ行くからね。ママ起きなかっ たら、ゆうくん、起こしてね」
 おいちゃん家に行く日の前の日には、ママは大抵ぼくにそう伝えてから、お仕事に出かけていった。
 ママは夜遅い仕事をしていて、だいたい夜の八時半とか九時に出かけてから、朝方フラフラになって帰ってくることがほとんどだった。お日様がすっかり昇ってから帰ってきた時には、ママは夕方までぐっすりと眠り込んでしまうから、おいちゃんのところに行く日には、ぼくがママを起こすことも度々あった。
 だから昨日も、いつものようにぼくにそう言って出かけていったママがお昼過ぎまで起きなかったら、ママのご飯も一緒にレンジでチンしてから、起こしてあげようと思っていた。ゆっくり一緒にご飯を食べて、またぎゅっと手をつないで、 おいちゃんのところに行こうと思っていた。
 だけど今日、ママはとうとう帰ってこなかった。
 お日様がすっかり昇っても、ぼくがチンしたピラフを食べ終わっても、ママは帰ってはこなかった。
 ママは時々、こうしてぼくとのお出かけ前の約束を破ることも、あったけれど。お昼に帰ると言って夜中まで帰ってこなかったり、そのまま次の日の朝まで帰ってこなかったり、そんなことも、確かにあったのだけれど。それでも、ママがお家賃の日の約束を破ったのは、今日が初めてのことだった。
 ぼくはママを待ちながら、何度も何度も時計を見ては、どんどん過ぎていってしまう時間に、もう居ても立っても居られなかった。
だって今日は、おいちゃんに『お家賃』を渡さなきゃいけない日なのだ。新しい月になる前に『お家賃』を渡さないと、ぼくとママはおいちゃ んに、この部屋から追い出されてしまうのだ。
 月末が近付くと、ママはいつも暗い顔で、ぼくにそう言って聞かせていた。なのに今日、どうしてママは家に帰ってはこないのだろう。
 このままおいちゃんに『お家賃』を渡せなかったら、僕もママも、きっとすぐにでもこの部屋から追い出されてしまうのに。ずっと一緒に暮らしてきたこの部屋から、ママとの思い出いっぱいのこの部屋から、きっと追い出されてしまうに違いないのに。

どうにも耐えられなくなったぼくは、急いでお 外用の服に着替えると、バタバタとズックを履いて玄関を飛び出した。
 アパートの外はもうお日様も沈みかけていて、どこもかしこもオレンジ色に染まりあがっていた。
 ぼくはとにかく、おいちゃんに会おう、会ってお話しをしようと、それだけを思って歩き出した。
 おいちゃんに会って、ちゃんとお話しをして、ごめんなさいって謝ったら、おいちゃんも『お家賃』を待ってくれるかもしれない。ママも夜には 帰ってくるだろうから、きっと明日には『お家賃』も渡しに行ける。だからぼくがちゃんとお話しをすれば、おいちゃんもわかってくれるかもしれない。
 おいちゃんの家にひとりで行くのは初めてで、それはやっぱり怖くないと言ったら嘘だったけれど、ぼくはとにかくおいちゃんの家へと急いだ。 大丈夫、大丈夫と、心の中で繰り返しながら、今日はひとりぼっちの指先を、力いっぱいにぎゅっと握った。

 インターフォンを押すと、おいちゃんはゆっくりと玄関先に現れた。いつものエンジとグレーのキャップに、への字口。 ぼくは、おいちゃんがのそのそとこちらに来るまでの時間が、なぜだかひどく長く感じて、どくどくとうるさい心臓の音が、耳の奥まで響いてくるようだった。
「なんだ、坊、ひとりか」
 おいちゃんは低いしわがれ声でそう言うと、ジロリとぼくを見下ろした。
「あ、あの、ぉ......」
 ちゃんと喋ったつもりだったのに、ぼくの口は変な風に力が入ってしまって、ちっとも上手に開かなかった。歯と歯が奥の方でカチカチとぶつかって、寒い日のプールみたいに唇がブルブルと震えた。
「お家賃、あの、ママ、帰ってこなくて」
 なんとかそれだけを絞り出すと、ぼくはおいちゃんの顔を見ることもできなくて、ぎゅっと瞼をつむってしまった。ああ、ちゃんと、謝らなければいけないのに。
 おいちゃんは黙ったまま、しばらくはじっと、ぼくの方を睨みつけているようだった。

「おい、坊。お前、あまいもん、好きか」
 それがどのくらいの長さの沈黙だったのかは、ぼくにはさっぱりわからなかったけれど、不意にそれを破ったのはおいちゃんの方だった。
 ぼくが言われた意味を飲み込めないままぼうっとしていると、おいちゃんはもう一度「あまいもん、好きか」と、しわがれ声で繰り返した。
 ぼくはまだ少し混乱したまま、あわててブンブンと、頭を縦に二回振った。するとおいちゃんは、「待っとれ」と低く言って、そのままのそのそと玄関の方へ戻って行ってしまった。
 ぼくはどうしていいのかわからなくて、待っとれ、と言ったおいちゃんの言葉に従って、とにかくじっとおいちゃんを待った。
 しばらくして、またのそのそとぼくの元へ戻って来たおいちゃんの手には、茶色い飴玉がたくさん入った、大きな透明の袋が握られていた。
 おいちゃんはその袋から、おいちゃんの右手いっぱいに飴玉をわしづかむと、バラバラとぼくの両手の上に積み上げた。
「ニッキしかなかったわ。ちっと辛いかもしれんけど、食え」
 おいちゃんは、への字口をぐぐっと歪ませながら、ぼくに言った。それからぼくの両手がふさがってしまっていることに気付いたからか、ぼくの手のひらから飴玉をひとつ拾い上げ、乱暴に包装をむしってから、僕の口の中にコロリと入れてくれた。
 おいちゃんが『ニッキ』と言った飴玉は少し変な匂いがして、僕は一瞬オエッとなった。だけどそれに慣れてしまえば、ちょっとだけオエッとする、あまいあまい飴玉だった。

「うまいか」
 おいちゃんは、おもむろにぼくの頭をガシッとわしづかんで、低い声で聞いた。
 ぼくはやっぱり、不機嫌そうなへの字口のまんまのおいちゃんが少しだけ恐くて、ちいさな声でなんとか、「うん」とだけ搾り出した。
 おいちゃんは「そうか」と短く答えて、そのままぐしゃぐしゃと、ぼくの髪の毛をかき混ぜた。
 おいちゃんの手つきは乱暴で、くせっ毛のぼくの髪の毛に絡んで、ほんの少しだけ痛かった。だけどぼくは、不思議とそれを嫌だとは思わなかった。
「......あの、おいちゃん」
「んん?」
「お家賃、ごめんさい。お家賃、今日持ってこられなくて、ごめんなさい」
 言葉にしたら、なぜだか急にグググっと涙がせり上がってきて、ぼくは慌てて目元にぎゅっと力を入れて、どうにかこうにかそれを耐えた。どうしてもしゃくりあげそうになるのを必死に飲み込んで、ぼくは何度も、おいちゃんに「ごめんなさい」を繰り返した。
 おいちゃんはまた黙って、じっとぼくのことを見下ろしていた。
「坊」
「......うん?」
「飴玉、うまいか?」
 おいちゃんの声に顔を上げると、おいちゃんはいつものへの字口のまま、しわくちゃのまぶたの奥のちいさな真っ黒の目で、ぼくのことを見つめていた。
 おいちゃんがなにを思っているのか、ぼくにはやっぱりちっともわからなかったけれど、今度はそれに「うん」と、しっかり返事をすることができた。するとおいちゃんはまた「そうか」とだけ言って、ぼくの頭をますます乱暴にかき混ぜた。
「そしたらな、坊。ありがとう、でええ。飴玉うまかったんなら、ありがとう、でええ」
 ぼくの頭を乱暴にかき混ぜるおいちゃんの指は、太くて、黒くて、カサカサで、でもぼくの知らない、おおきな大人の指だった。ママとも、学校の先生たちとも違う、硬くて、あたたかな指だった。
 ぼくはとうとう涙がこらえられなくなって、どうしてこんなに悲しいのか、どうしてこんなに涙が止まらないのかわからないまま、おいちゃんに 何度も何度も「ありがとう」を繰り返した。
 口の中に涙も鼻水もいっぱい入って、おいちゃんがくれたニッキの飴玉が、しょっぱいばかりになってしまったけれど。
 ぼくはただ、湧き上がる悲しいやさみしいが空っぽになってしまうまで、ただただ、おいちゃんに「ありがとう」を繰り返した。





小平有希
本職は声優。クリエイターズユニット『ユルシイロ』語り、ヴォーカル担当。

語りとして読むために書いたテキストなのですが、今回は小話として提出させていただきました。
脳内で、思い思いの少年声に変換していただけたら幸いです(笑)
素敵な企画、広がっていきますように!。